叩いて叩いて

実際、宛名入りのサインがなされたCDやレコードはどう手放すべきなのか、わからない。四月に一斉に新しいことをみんな始めすぎていて、慌ただしいので、やめてほしい。むかし、Cocoというコンビニがあったことを思い出した。最寄りの店舗は確かここにあったはず…と調べたら、文字の情報だけが残っていて、店舗の画像はいっさいインターネットに無かった。過去の日記を見返していたのだが、ある時点の日記からは「最近」の感覚が感じられて、日々というものはドミノが倒れるように連綿と続いてきているのだなあ、と妙な感覚に陥った。体が火照って寝れない。睡眠時、あるいは眠りに落ちようとがんばっている時間の不快さって、季節に関係なく、寒さよりも暑さに宿っている気がする。人は毎日のように決まった場所に行って勉強をしたり働いたりしがちだが、その人たちは当たり前のように、ほとんど毎日それぞれのいるべき場所に存在しすぎていて、その人たちが曲がりなりにも生活と呼べるものをして毎日それぞれの自宅に帰って就寝して起床して…というプロセスをしっかりとやった上でまた昼間には同じ場所に存在しているということが、信じられないときがある。要するに、他人のことをその人の私生活がいっさい抜け落ちた状態で認識しているぶん、他人が生活然としたことをしているという事実がわたしの想像を超えてしまっている。『おかあさんといっしょ』にスタジオ出演しておきたかった。幼児のわたしがあそこでどのように振る舞うのか興味がある。椿鬼奴玉置浩二が歌う動画を観てしまった。鵜は、ただの嚥下のモーションを「情報を吟味せずに信じ込む」みたいな意味でばかり人間に使われていてかわいそうだ。朝からMajesty Crushを聴いていた。人間的な歪みのようなものが多分に滲み出ている音楽で、それが良い。一時期、バッグを駅のホームのベンチに置いて休むことがルーティン化していたことを思い出し、かなり迷惑なことをしていたなあと思った。きょう、駅のホームでそれと同じことをしている人を見かけて、ベンチの1ロットぶん使うなら座れよ、と感じたことで思い出した、昔の記憶。きょうは、エスカレーターに、これに巻き込まれて死ぬ人もいるような機械にわたしは身を預けている、と思いながら乗った。きょうは暖かかったり寒かったりでかなり服装の具合が難しかったのだが、そんな中、わたしは七分袖に軽めのジャンパー、という服装で街に出て、それが正しかった。渋谷タワレコの六階でレコードをめくっていたらRideの新作『Interplay』が店内BGMとして流れてきたのだが、アンビエントとかを聴きたい気分の時だったため、うるせえ、と感じた。最近のRideはシンセポップっぽさを強化している感じなんかもあるが、店内スピーカーから流れるRideのうるささはシューゲイザーのそれに近く、伊達にシューゲイザー・レジェンドとして降臨していないなあと思う。それで、わたしがここの六階に赴いたのは、昨年末から中古CDが売られ始めた、という情報を聞きつけたからなのだが、店内のどこを見てもあるのはLPとカセットのみで、中古CDのコーナーが見当たらなかった。諦めて、四階に寄って、店を後にした。ペットボトルをバッグから落として、それを無かったことにするかのごとく、その落ちたボトルをさっと拾って一口飲んでからバッグにしまう人がいた。現地に住む人間として、スクランブル交差点の写真をむやみに撮らない、という矜持がある。『This Fire This Time』というコンピレーションを少し聴いた。きょうCD屋で見かけた、Earwig『Past』のCDを買っておけばよかった、と後悔した。'meanwhile'の語源はなんだろう、と考えていた。'mean'はコアの意味を捉えかねる単語だとも思う。電車に乗っていたら、小学生くらいに見える二人組がファミチキを食べながら乗り込んできて、そのあと、車内にファミチキの油を垂らしていた。