真ん中合わせる

寝落ちをしながら日を跨いだ。いったん目が覚めて、その時の時刻が一時四十分ごろだったのは覚えているが、そのあとまた寝て、ふつうの時間に起きた。BEYOOOOONDSの一岡伶奈さんが卒業するという報告を見てしまった。今までわたしが見ていたBEYOOOOONDSのすべてがとつぜん遠いものになるようで、寒気がする。アイドルというビジネスモデルじたい脆くて、誰がいつ卒業してもおかしくないという性質上いま現在の大切さが強調され、わたしはそこにアイドルというものの儚さ、および良さを感じているのかもと思った。「一秒一秒を大切に」みたいに言葉にだけすると陳腐になるが、同時にそれはかなり真理に近いことだと感じていて、アイドルたちはそれを体現する。

My Bloody Valentineの公式ツイッターがこの画像をアップロードしていて、ということはメンバー四人の全員がこれを承諾したということだよな、とすこし心が穏やかになった。「精勤」という言葉がわからない。「置かれた場所で咲きなさい」は本当の言葉かもしれない、と感じた。それぞれがそれぞれの人生に徹することこそ美しい気がしている。学生時代に学ぶ教師が人間であるというのは、人間が不完全であるということの裏返しであり、いくら立派な教師であっても能力や精神性などにおいてでこぼこしているはずで、そのでこぼこしているのの、最も良さげなところを魚拓して自分に取り込むような姿勢が、また人間は誰しも欠陥があると知ることが、生徒の在り方として、ひとつ、理想的なのかもしれない。そうして連綿と繋げるものは多分ある。チラシやポスターを見ていて芸能人や写真モデルの人が目に入ったとき、その人のその日の睡眠時間はどれくらいだったのだろうかと、考えを巡らせることがある。だいたい広告に使われるような写真にはプロのモデルとプロのフォトグラファーが携わっていて、モデルが二徹していようが煌びやかに見せてしまうのだろうが、そこには、もしその煌びやかさが二徹を押し殺した煌びやかさだったら、という考えの余地がある。電車に乗ったら、大声で哲学談義みたいなことをしている二人組がいた。「自分が幸せになってから他人を幸せにする」とかなんとか聞こえたが、わたしはイヤホンをしていたのであまり聞かなかった。今までの人生でいちばん訪れた回数が多いと思われるショッピングモールに、ひさびさに行った。地元の高校生が作成した書道作品が展示してあった。テナントの変わりぐあいを見るためにモール全体を周ってみたのだが、携帯会社や銀行、また枕やサプリメントなどを扱うような、健康を意識した店が増えていて、ここのイオンも「機能」に向かうのか、と少しだけがっかりした。そのあとは本屋に行って、探している本が売っていないことを確認した。バーガーキングのポテトは何もつけないのがいちばん美味しい気がする。昨日CDが届いた、柴田聡子『Your Favorite Things』を聴いた。歌詞カードを見ながら聴いてみたのだが、はんぶん文学みたいだと思った。柴田聡子の音楽は譜割りが技巧的で、歌詞を見ながらでないと頭を流れて、噛み締めることのできないフレージングをするときがある。わたしは"Reebok"でいちばん昂った。笑いを取ることは悪いことでは全くないが、そのために何かを蔑ろにしてしまっていることもある。「新たに」と「新しい」において、「新」の読みが分裂していることは気持ち悪すぎる、と気がついた。『日曜日の初耳学』の視聴者は、日曜日のあの遅い時間になにか新しいものを取り入れるバイタリティがある人に限られる。「寝溜めカンタービレ」を思いついてTwitterで検索してみたら、みんなツイートしていて、ツイートしなくてよかったと思った。