死んでゆく

高校生のころ、学校単位で劇団四季の舞台を観に行くという全員参加のイベントみたいなのがあって、終演後に周囲がスタンディングオベーションみたいなノリになってみんな立って拍手をしていたのだが、わたしはどうしてもそのノリに乗れず、けっきょく最後まで立たなかったことを覚えている。そのとき、隣の席にいた同じクラスの人に、少しだけ顔を覗き込まれたことも覚えている。したいしたくないとかに関係なく、何かができなくなる時がある。可能性の話ではなく、心の何かが行動を邪魔するという話だ。人に助けられている。集合場所ごと間違えるみたいな、大きめの単位での勘違いが多くて、ある意味、過度なおっちょこちょいという烙印を押されやすい。そしてそれは、ちょっとしたミスを重ねるやつ、といった印象よりも楽に背負える称号だ。でもわたしはわたしで、そういった勘違いを軽減したりなくしたりする努力をしなければならない。体重計みたいなやつで体年齢みたいなやつを調べたら実年齢よりも十五才ぶんくらい上の数値が出た。今日は血迷って、50m先のコンビニに行かず700m先のコンビニに行って、なんでこっちに来たのだろう、と思ったのだが、「今日まで唐揚げが安い」などと客に馴れ馴れしく言っている、ただのセブンイレブンをさも自分の経営する店のように捉えているような接客をしている店員の人がいて、来る価値があった。Stereolab『Dots and Loops』は出るべくして出た名盤だなあ、と思う。久々に聴いて、もう本当に圧倒的だった。ポストロックの潮流と、ノイズ〜サイケ〜シューゲイザーの潮流があって、それらに近接する位置にStereolabがいて、ジョン・マッケンタイアがいて、それらが融合し爆発を起こした。 わたしは哲学を学ぶということに不向きなのかもしれない。ハーシュノイズを小さい音量で聴いていると何か情けないような気持ちがせり上がってくる。音楽は努力だ。今のわたしはどうしようもなく情けなくて、気力がなくて、でもこうして文章で表現することができるが、やっぱり音楽なんかはできる気がしない。音楽表現をできるようになるための努力ができない人がいる。そのくらい破れた人がきっとどこかにいる。なんでこんな知らない人たちにぺこぺこしなければならないんだ、といった自分の思考の側面は無視ができない。驚くべきことに、社会に出て色々な人と関わっている時よりも、ずっと長く一人でいる時のほうが幸せだ。何かについて人に喋っていて熱を帯びたとき、「(そんなにその話題で喋れるなら)本でも書けば?」といったことを冗談めいた調子で言われると、その瞬間、その人と取り合う気がなくなる。自分の幸せを大事にしなくてはならない。正直、今はつまらない。きょうは珍しく、早歩きで帰ったのだった。早歩きでもしないと仕方がない。音楽には表情がない。それが良い。音楽、あるいは音楽をやっている最中のパフォーマーは、自分のやること、やりたいことにだけ淡々と目を向けている感じがする。こちら側の私事への干渉がない。そして情けない。帰りの電車の中では人と距離をとる。礼儀は正しくしないといけない。六厘舎という名前の店があったらうまいだろうなあ。「駅」を考案した人は、それに見合った収入をおそらく得られていなくて、しかも今に至るまで自分の発明品への批判をたくさん受けてきているはずなので、かわいそう。

なんか、すごい。今はけっこう気分が良い。昼間は下がりきっていたが。あしたのスケジュールを少し妥協して、緩めよう、と心に決めてから、心に余裕が生まれてきた。