流れられる前に流れる

つばきファクトリーとしてのパフォーマンスに、浅倉樹々さんと小片リサさんも参加したということを知り、長いあいだ動けなかった。おそらく、現場にいたら、その後のショーには集中できなかったと思う。なんとなく、人生でいちばん好きなアイドルグループになるような気がしているグループだけに、もう意味がわからない。画面に向かっているだけで2時間くらいが経過しているこの感じ。そんなこと、していいのか。このことはわたしの中の何かを変える気がしている。ツムツムの、ポーズ画面を利用してハイスコアを狙うみたいな技、いやだったな。日本テレビZIP!』の収録スタジオは虚構で、背景のすべてはグリーンバックに合成されているものでしかないため、ゲストは緑色のものを身につけられない、という世界線。ウェットティッシュって、ある時からとつぜん「片手性」を喧伝し始めた気がする。いま私がピンクフロイドに入ったら、"Echoes"とか全然覚えられなくて、ライブリハーサルのときとかにめちゃめちゃロジャーウォーターズに絞られると思う。電車から見える小さい公園の小さいベンチに座っている老人になるため、電車に乗っている。サラリーマンに靴を踏まれ、靴が脱げた。いい気味だ。そのまま、<少し悪いことをした>というステータスを朝から引き摺る一日にしてくれたらよい。「待望の」を表現するときに、前置詞が必要になるwaitを使わず、他動詞であるawaitを変形した"awaited"を使う、みたいなセンスって急に問われることがある。いま使っているイヤホンには幾つかのイヤーピースが付属していたのだが、気づいたら「かさ」が二重になっているキモいイヤーピースで落ち着いている。ふたマウンドある、キモいやつ。建築と医療の荷の重さ、ミスできなさはすごい。駅の設計をしたら、めちゃめちゃ駅のエゴサーチをしてしまうと思う。柱が邪魔で人にぶつかった。すみませんでした、私の不勉強がたたって。トイレの位置が分かりづらい。ごめんね、実際的なユーザビリティまで手が回らなくて。A.C. Mariasというバンドの7インチを買いに、ディスクユニオンへ行く。きょう駐輪場で、ヘルメットをかぶり自転車を押している少年が前を通ったため、どうぞーと先に通るよう促したが、どうやらその少年はその時わたしがいた方へ駐輪したかったらしく、睨まれた。睨みだ、とは思ったが、こういう善性エピソードみたいなものは少年の人生に後から効いてくると思うので、その未来のことを考えたら平調な心持ちでいられた。昔のポスターなどを観ると、そういう紙媒体に西暦まで記入することの重要さを感じる。釣りってなんで合法なんだ。貝とか、採っちゃだめなやつがあるのはなんなんだ。川沿いの小石は持ち帰ってよいのですか。数十年前に記された日記などをアップロードしているTwitterのアカウントの存在を知った。めちゃめちゃ他人の日記というだけでも面白いのに、時代さえ異なるというのは、当時の日記のオーナーにとってただの日常に過ぎないことの一つ一つに反芻される価値が付与されるようで、味わい深い。「数学のテストがあった」←そのころも数学のテストはあったんだ、「外人」←当時にも「外国人」などと言い換えて差別的ニュアンスを排除する向きはあったのだろうか、など。わたしが慎重な性格をしていて、よかった。自らの意思でインターネットに名前や顔をさらけ出して、取るに足らないような動画を発信しているような人のことを見るとそう思う。わたしが慎重じゃなかったら、わたしは責任を取ることになるから。井出ちよの『もうすぐ高校生活』が届いた。聴いた。クレジットによると、石田彰氏が作詞作曲に参加した楽曲は少なめだが、このクレジットは本当なのか。"ラジオネーム"という曲は宮村優子の"ママ・トールド・ミー"(小西康陽作)を下敷きにしていると明言されているが、この曲の作者は「宮村康陽」となっている。

これがあるため、アルバム全体のクレジットへの信用性が低い。また、他にも作詞や作曲に名を連ねている人物はクレジット上では存在していることになっているが、軒並み、ネットで調べてもそれっぽいものがヒットしない人名なんだよな。上記のインタビュー、二人で「ふり」をしている可能性がある。そう思うのはわたしだけなのか。それとも、みんな気づいてるのか。これは、何をいまさら、というレベルにある話題なのか?。