終わり日

気がついたら6枚もの重ね着をして外出していた。きょうの朝は、悠長に駅のトイレを使用していつも乗る電車の一本あとの電車に乗った。このくらいの余裕は大事だ。多少なら逸脱しても許される。まあ何事も禁止されているわけではないが、少しのドロップアウトで何かが悪化することはない。長編ドローン/ポストロックバンドとして私が信頼を寄せている、Magnogのギタリストが2015年に亡くなっていることを知った。わたしは1990年代あたりの音楽を好むが、好きなバンドの中で死んじゃっている人が少なくなくて悲しい。わたしがよく通る道には、近隣の幼稚園の園児が制作したらしい絵、あるいはコラージュアートのようなものが飾られているのだが、見るたびにそのプリミティブな芸術性に足を止めそうになる。じっさいには止めないのだが。ただ、そのアヴァンギャルドさは本当だ。先生のディレクションもよいのかもしれない。安易な、季節の事物や誰々の似顔絵、に留まらない。小さな手形だったり、気味の悪いぶつぶつが入っていたりして、とにかく気になる。手や足の末端が冷え切ることはよくあるが、その冷えが不可逆で、サウナなどに入っても芯は温まらない、ということがあったら怖いと思う。何でもない会話のことを「雑談」というが、世の中で為されてきた会話の中で「雑談」に該当しない会話の分量はかなり少ない気がする。母親と道を歩いている男児が黒いダウンを着せられていて、その姿がやけに大人びて見えた。いつも乗っている電車を一本遅らせて、駅からすこし歩いたところにあるコンビニで支払いの用を済ませた。もっと日常に弛みを与えてもよいのかもしれない。Ultra Vivid Sceneって何らかの音楽家に多大な影響を与えているような気もするが、それが誰なのか分からない。シューゲイザーとよく言われるが、だいぶニューウェイヴだと思う。出費しよう、というマインドになっている。経済のことを考えて…みたいな高尚な理由づけはしないでおく。好きすぎるコンテンツに大量の金を払うのが良いのだと思う。あるいは生活、食品などの、如実に高さが品質の高さに比例してくるような製品。だめだと思った、あるいはだめそうなプロダクトに金を払う必要はもちろん無くて、そんなことは承知なのだが、ここら辺が適当になっていることがある。取捨選択、使うところに使う、という生き方を身に刻んでもよい。大体の人々がコミュニケーションを通して身につける社会性みたいなものを、わたしは多様な事物を知ることを通して得ようとしている気がする。クリスピー・クリーム・ドーナツを食べた。2個。ミスタードーナツよりも感動はするが、なにより重い。甘重い。密度の高すぎる人生を歩んだゆえに早く死ぬということがもしも有り得るのなら、怠惰に生きたい気もする。Orbital『In Sides』、良いな。