既に発表されている「へでもねーよ」「青春病」「旅路」、ストリーミング累計2億回再生を突破した「きらり」、紅白歌合戦でサプライズ生演奏した「燃えよ」…

「体に気をつけて」ってよく考えると変すぎる。夜間に窓を長い時間眺めていると、とつぜん顔がそこに現れるのではないか、と思う。心霊とか、そういう怖い事象などを飛び越えて、ただ何者かの顔が出現するのでは、という不安感。Taiko Super Kicksというバンドが一年に一回くらいの頻度でやっているラジオがある。

その最新回を聞いたのだが、生活の中に「処理」みたいな作業があると良い、という話に共感した。すべてが円滑に進み、その間は脳が空になるような作業ということだと思う。散歩はこれに近いものを感じさせるが、外出の手間の有無は大きい。溜まったラジオを聞いたり、新しい音楽を聴いたりする、でも手が空かず怠惰すぎない時間。ある程度の段階までは、怠惰であることも悪ではないと認める態度が醸成されてしまっているため、自分を怠惰でない方向へ導く行いがしづらくなっている。言葉を介したコミュニケーションって、まだまだおぼつかない。「えーと…」「like…」みたいな間投詞が必要になる場面が多々ある。まずまず生活の中での全ての出来事に、言葉は完全には接地していない。ゆっくりと思慮深く話す人の話を聞いていると、特にこういうことを思う。スポーツチームの監督が極度に老人のとき、選手たちは団結しやすくなる。「陽キャ」「陰キャ」のような、人のことを類型的な何かに落とし込む言い回しは何も生まないと思っているが、類型的な人間になりたくない(というよりも、他人によって類型に嵌められたくない)節がある私にとって、そのような言葉によって線引きされる「類型的な人間」の像は、世間的な「類型に落とし込むことができる人」の印象を教えてくれるためその点では有用で、自分を客体化する際の一種の判断材料となっている。生活の中で食事という概念は不可避ゆえ洗練させやすいので、野菜を食べながらも睡眠習慣は不規則、みたいな状態が続いている。ラジオって良い。○○さんが△△について発言をしていたのって何のラジオの何の回だっけ、と気になり「○○ △△」と調べても(たとえそのラジオがネット配信されているものだとしても)、その回が見つからないことは多い。SNSでは情報が一次的に閲覧されすぎてしまってストレスフルだが、そういった媒体のあり方と大きく離れている。ブログもSNSに比べれば閉鎖的だが、明文化された発言と声色が伴う発言では大きく印象が異なる。ラジオにおいては、気持ちセンシティブなことを話したりしてもOK、という感覚はあると思う。軽い手のけがを負って絆創膏を当てがおうとしたら、そのパッケージに「救急」という文字列が見えて、分不相応さを感じた。インスタライブの、「画面のボタンを一つでもクリックしたら何か悪いことが起こる」感はすごい。コメントどころか、絵文字によるリアクションの一つもできない。緊張感がある。「コラボ配信」などという機能を作るな。

 

【本日の1枚】Yo La TengoNew Wave Hot Dogs』(1987)

初期のYo La Tengo。まったく「イズム」のないインディロックではあるが、悪いことは全然ない。何がきっかけで、ノイズ⇆アンビエントみたいな作風に行き着いたのか知りたい。シューゲイザーなのか、ノイズ音楽なのか、サイケ音楽なのか。なんだろう。