松葉握りながら

人が死んで、その死因となった病名がやけに具体的な夢をみた。蓬莱の肉まんの下に敷いてある木の紙みたいなやつに張り付いた肉まんの生地を食べると、木だなあ、という味がする。The Boo Radleysの『Wake Up!』をはじめてちゃんと聴いたが、良かったな。"Wake Up Boo!"のメインストリーム性とジャケットのダサさで舐められてる感じはある。2ndまでのとりとめのないサイケ感、そしてノイズ、それらの要素もあって、でも音響的にはもっとオープンな印象で、良いポップアルバムだった。その流れでMercury Revの『Yerself Is Steam』も聴いた。両者ともサイケポップっぽさは通底している。こっちの方が露悪的な感じがするかもしれない。音圧が低い感じがして、いまいちパッとしない印象を抱いていた作品なのだが(要所要所のギターノイズを際立たせるためにその他の箇所の音圧を下げている、という噂もあるが本当か)、きょう何となく掴めた気もした。"Frittering"という曲は良いかもしれない。「喋らない人」に抱いてしまう崇高なイメージってある。母語の異なる人を怖く感じることがあるのも、ここに近い気がする。日本人から見たところの、「日本語を喋らない人」は、その素性をあまり問わず、凄そうな感じがしてしまう。怖そうな感じ、とも言えるかもしれない。英語が国際言語である限り、英語話者はそうでない人から分不相応なリスペクトを受け取るかもしれないし、その関係性は恐らくもう裏返ることがなく、そのことが導く文化的な優性/劣性の価値観、みたいなことは存在している気もする。小学生の頃、クラスに「たまに睨みをきかせてしまうことがあるけど、これは自分の視力が悪いからだよ」と、睨みの理由について事前説明をする人がいて、いま考えるとかなり思慮深い行為だったな。遠くの文字を見るために目が睨んでる感じになってる、という気づき、あるいはそのことによるトラブルの勃発への反省を通り越していないと、なかなか到達できない配慮だ。もしもこれが大人の社会での話であれば、ホワイトボードなどに異様な睨みをきかせている人がいたとしても直ぐに「視力が悪いのだな」と類推できる人がおそらく大半であり、その意味でも達観している。「小学生向けの」配慮の配り方をしている。James Ferraro『iAsia』は架空のラジオ局をテーマにしたようなアルバムなのだが、多くのリスナーが「Spotifyなどで聴ける高音質のリマスター版よりもYouTubeに投稿されている低音質のリッピング音源のほうが良い」と言っていて、アルバムの内容によっては音質が悪いということのほうに価値が生まれる例もあるのだなあ、と思った。ラジオの分かりづらさみたいなものに憧れている。このラジオであの人があのことについて話していた記憶があってそれを聞き返したいんだけど、という時に、検索しようがない。文字になっていないというアクセスの悪さは、インターネットが可能にしてきた情報へのアクセス性の向上みたいなものと逆行するものであって、このインターネットの厄介な性質に抵抗できる数少ない媒体だと思っている。「文字が多くて疲れすぎる、でもスクロールしてしまう」みたいなインターネットの悪さ、依存性の強さにも、ラジオは「目をつぶって人の会話を聞けてその間は画面上でコンテンツの取捨選択をする必要がない」という性質で対抗する。