🆓

何が楽しくてこんなことをしなければいけないんだ、が多い。充電ケーブル側の問題だと思っていたイヤホンの充電エラーがイヤホン側の問題っぽくて意味がわからない。テクノロジーみたいなことはいつも私を欺いてくる。「自分に生きる価値を見出せない」が分からない。なぜなら私は、私が生きていて価値を創造していると思わないから。自尊心がないとか、卑下の気持ちが強いとかではなく、ただ私が生きることでは何かのバロメーターが上がるも下がるもしない気がする。「自分に生きる価値を見出せない(から人生を終わりにしてしまおう)」⇔「ふだんは生きている自分に価値を見出している」。人に施す、世界に何かを残す、そして何より自分を大事にいたわる、といった意識がないと浮かばない考え方。ある意味、繊細で偉い考え方だと思う。私は私が生きているということしか捉えられない。私がいなくなってしまいたいと思うときは「自分に価値を見出せない」ことではなく、外的対象への不満が専らその要因となっている気がする。わたしはこうしてブログを書いていて、日々考えていることがまとまって可視化され、残り続けるということ自体はとても良いと思うが、一方でその日その日の記憶がこのブログに書かれたことだけに収束してしまうのではないかという危機感も抱いている。AとBという二つの気づきをした日があったとして、Bについてだけをこのブログに書いたら、Aは無かったことになる気がする。この感覚、伝わるのか。2023年6月21日に私はこのようなことを思い、その他は取るに足らなかったので書かなかったのか、という認識が時が経つにつれて強まる。2023年6月21日から遠ざかるにつれて。そう思うと文章として見えるようになった概念というのは実に支配的だな。すべてを脳が覚えているわけではないから、ブログという媒体に文字として書き起こす。その時点では脳の持つ「きょうの記憶」から一部を抽出して文章にしている意識が強いが、脳の中の「"きょう"の記憶」が薄れてゆくにつれて、アウトソーシングされてこのブログに文章として現れているものが「"きょう"の記憶」の全てのように錯覚される。いまも、AとBの例え・2023年6月21日の例え・「きょうの記憶」の例え、という具合で思いついた例えをすべて並べて記録して、伝えたいことを補強するとともに私の思念が全てとりこぼされないよう無意識的に取り計らっている節がある。記録することの楽しさと記録することの怖さは、確かにどちらも存在していると思う。

 

【本日の1枚】Unrest『Perfect Teeth』(1993)

シューゲイザーディスクガイドにさりげなく載っていたりするが、あまり聴いていないアーティスト。"Cath Carroll"は好きだな。意外と4AD。そして意外とアメリカ。基本的にはインディポップ/ノイズポップみたいな感じだが偏執的なクラウト的アプローチがよい。