それだけ

折りたたみ傘をうまく畳めないことがコンプレックスで、毎回、使おうと取り出すたびにしわしわな傘を見る羽目になる。'blimey'という英単語を知った。日本語でいう感動詞っぽい感じらしい。各家庭にコンロやらトイレやらのでかくて高そうな設備があると思うと、かなりすごい。個人所有してもよい設備の複雑さを超えている。アイドルがジェットコースターに乗る動画を観ていて、こういう絶叫系アトラクションに乗る芸能人を静かに隣で撮影しているカメラマンは、遊園地に直属で勤務している人なのだろうか、と思った。それとも、芸能人側の撮影クルーから、ジェットコースターが得意な人を引き抜いて撮影しているのだろうか。'spank bank'や'memory wank'といったフレーズを知ったのだが、これらに相当する日本語のフレーズは無い気がする。親の庇護から離れていくごとに訳のわからない物にだんだんと囲まれ始め、一つ一つの経験が雑に、噛み締める余地もなく過ぎ去っていくようになってしまうような残念さが人生にはある。朝の五時から六時四十分まで寝て、その後すこしゴネて、七時に起きる。礼をしながら電車に入ってくる人がいた。きょう、駅で列に割り込んできた人のバッグはFjällrävenのもので、アーニャのキーホルダー、お守り、白いリラックマのついた手ピカジェル、この三点が付いていた。受付のカウンターの人がきれいな人だった。きょう、VRゴーグルを付けて歩いている人がいたのだが、気のせいだったのだろうか。きょうの暑さは陽の暑さだ。そして、かなり不快。街中で驚きの感情が生まれたとき、演技しているみたいになる。個室のトイレに入ったらおしっこと思われる液体が飛び石のように散らばって床を濡らしており、それらを踏まないように用を足すわたしはさながらサスケに出場しているようだった。ディスクユニオン神保町店は老人すぎる。きょう行ったのだが、一枚一枚CDをめくって見る老人がいて、遅かった。遅さを咎めるつもりも迷惑がるつもりもないが(少しはあるが)、あれはあまりにも悠長すぎた。老人コミュニティーの中で育まれる老人しぐさだった。ピチカート・ファイヴの特殊パッケージのCDを買ったのだが、それがどのディスクユニオンの袋にも綺麗に収まらないような絶妙な規格のものだったため、店員さんに、袋はいりません、と言った。あのトールケースみたいなCDを袋詰めさせるのはかわいそうだと思った。特殊パッケージを乱発していたピチカート・ファイヴの、アンチ産業主義/消費主義っぽいところに、遠いところから加担できたような気がして少し良かった。管楽器の音が細切れで鳴っていると、だいたいジェームス・チャンスに聞こえる。外で、Fenneszを聴いて、水辺を眺めながら、ローソンでなんとなく買ったヤンニョムチキンサンドを食べた。五感のすべてがいつもとは異なるものを知覚していて、変な時間だった。ちゃんとしたヤンニョムチキン(パッケージに専門店がどうとか書いてあった記憶があるので、恐らくちゃんとしている)を食べるのは初めてだったのだが、シナモンの味が強くて、美味しくなかった。シナモンの味がチリソースと渾然一体となる瞬間は、一瞬おいしかった。あとはチキンカツにシナモンパウダーをいたずらに振りかけたような、わたしにとってはミスマッチな味をしていた。帰りの電車でわたしは寝ていたのだが、とある駅で大量の子供が一斉に乗車してきて、目が覚めた。一駅ぶんだけ乗って、降りていった。トレジャーファクトリーに行って、CDやレコードの取り扱いがないことを確認して、すぐ退店した。マキシCDシングルってケースが薄くてかさばらないし、曲数が少ないから好きだ。縄文時代の人の暴力の痕跡は遺物として保管されるのだろうが、現在を生きる人の暴力の痕跡は警察によって検証されるはずなので、不思議だ。Masonnaを風呂で聴いて、ちょうど良かった。山崎夢羽さんがBEYOOOOONDSを卒業する、という情報が目に入って、目が覚めた。人生のある時点までテレビを斜めに配置した状態で観ていたので、真っ直ぐから観たら逆に歪曲して見える時期があった。今は慣れた。わたしは、一緒に給食のご飯を配膳していた人が「寿司、とくにマグロが好き」などと言ったのに対し、「寿司はあまり美味しいと思わない」などと言う小学生だった。歯磨き粉に入っているつぶつぶが喉に突っかかり、噴き出し、一日が終わった。

smdjj

最近のわたしは、能動的に動く時間よりも、無為にやり過ごす時間のほうが長い。それに気がついて、わたしの生き方は適当すぎる、と危機感を持った。わたしが「私」という漢字をあまり使わなくなったのは、「私」には「わたくし」という読み方もある、というソース不明の書き込みをある時に見たから、でもある。嘘かもしれない。二年くらい前からやっていたWordleのデータが仕様変更のためか先日すべて飛び、悲しかった。五、六百回はやっていたと思うのだが。AはBより進んでいる、などと言ったとき、単に両者の進行状況を比較している時と、BよりもAのほうが成熟していて高レベルだ、ということを示す時があり、「進んでいる」という言い回しは微妙に使いづらいと感じる。高校にいた、生徒と同じ時間の電車に乗って通勤している地学の教員は、密かに慕われていた。ニコニコ動画の、動画前に挟まる「いきなり!動画紹介」という広告で紹介される素人の動画を観たときにだけ感じられる、安らぎみたいなものがある。YouTubeの動画を観始めるや否やコメント欄に目に通すという行為は、人間っぽい。インスタグラムのコメントは何週間前のものかが表示されるようになっているため、2011年4月21日は675週間前なんだ、みたいな感慨に耽ることがしやすい。睡眠をとっていたら夢の中で転んだり落下しそうになったりしてヒヤッと目が覚める、というのは偶にあることだが、きょうはそれの、後ろにこけそうになるバージョンにあたって、レアだった。緊張する日は、あえて寝不足の状態を作って、緊張を脳がフルに受け取らないようにすることがある。満員電車で前に立っていた大男が周りを見ていなくて、心底、腹が立った。点字ブロックの上に立っていたら怒られた。ごめんね。 'Google Cloud'と書かれた傘をさしている人がいた。桜のきれいに咲いている場所にひとり佇んでいたら、知らない人に写真を撮るようお願いされる、というイベントに巻き込まれた。一人でこれに出くわすのは初めてだ。「3、2、1、」という言葉とともに写真撮影をしたのだが、やはり「はい、チーズ!」のほうが人間味にあふれているフレーズだとは思う。好きな歌詞を発表するとき、その歌詞の部分のメロディーを無視しようとあえて平板に読んで、かえってそれが不自然になる、みたいなのと同じで、カウントダウン方式はなんだか味気ない感じがする。写真を撮り終えて別れたあと、わたしのスマホでも一緒に写真を撮っておけばよかった、などという気持ちが浮上しかけるも、やはりやらなくてよかった。人に和式のトイレを譲られて、意外だった。回転寿司屋のテーブルに備え付けてある機械は水ではなく熱湯ばかり出すので、不満だ。寿司と冷たい飲み物を合わせたい。きょう行った回転寿司屋では、隣の客が老いた男と若い女の二人で、寿司を食べながらずっと気にかけていた。今日は雨が降っていて最悪だった。自宅までが遠い日だった。もともと、昨晩まじめに睡眠を取らず、二時間ほどしか寝ていないというのが今日の不調の大きな部分に関わっている。17時から22時ぐらいの感じで寝た。

Codename Dust Sucker

つばきファクトリーという素晴らしいグループと津野米咲という素晴らしい音楽家が交わった、という事実は絶対的で、永遠だ。アイドルというエンタメ形態はやはり素晴らしいと思う。アイドル自身の頑張り、ライブで何回披露しても色褪せない楽曲、グループであることの矜持、アイドル本人から湧き出るパーソナリティの楽しみ、活動期間が限られるゆえの団結感、このような事柄がすべて合致したうえで成り立っている。すがすがしく起床した。パンにチーズを載せたやつをレンジにかけたら、やりすぎてしまったらしく、だいぶ焦げた状態のものが出てきた。高校の文化祭で、その設営や準備に自分があまり貢献できなかったと考えたわたしは、後片付けを一心不乱にすることで、バランスを取った。お菓子の袋で手の甲を少し切ってしまって、情けなかった。キッチンの水道でじゃぶじゃぶ洗っておいた。

叩いて叩いて

実際、宛名入りのサインがなされたCDやレコードはどう手放すべきなのか、わからない。四月に一斉に新しいことをみんな始めすぎていて、慌ただしいので、やめてほしい。むかし、Cocoというコンビニがあったことを思い出した。最寄りの店舗は確かここにあったはず…と調べたら、文字の情報だけが残っていて、店舗の画像はいっさいインターネットに無かった。過去の日記を見返していたのだが、ある時点の日記からは「最近」の感覚が感じられて、日々というものはドミノが倒れるように連綿と続いてきているのだなあ、と妙な感覚に陥った。体が火照って寝れない。睡眠時、あるいは眠りに落ちようとがんばっている時間の不快さって、季節に関係なく、寒さよりも暑さに宿っている気がする。人は毎日のように決まった場所に行って勉強をしたり働いたりしがちだが、その人たちは当たり前のように、ほとんど毎日それぞれのいるべき場所に存在しすぎていて、その人たちが曲がりなりにも生活と呼べるものをして毎日それぞれの自宅に帰って就寝して起床して…というプロセスをしっかりとやった上でまた昼間には同じ場所に存在しているということが、信じられないときがある。要するに、他人のことをその人の私生活がいっさい抜け落ちた状態で認識しているぶん、他人が生活然としたことをしているという事実がわたしの想像を超えてしまっている。『おかあさんといっしょ』にスタジオ出演しておきたかった。幼児のわたしがあそこでどのように振る舞うのか興味がある。椿鬼奴玉置浩二が歌う動画を観てしまった。鵜は、ただの嚥下のモーションを「情報を吟味せずに信じ込む」みたいな意味でばかり人間に使われていてかわいそうだ。朝からMajesty Crushを聴いていた。人間的な歪みのようなものが多分に滲み出ている音楽で、それが良い。一時期、バッグを駅のホームのベンチに置いて休むことがルーティン化していたことを思い出し、かなり迷惑なことをしていたなあと思った。きょう、駅のホームでそれと同じことをしている人を見かけて、ベンチの1ロットぶん使うなら座れよ、と感じたことで思い出した、昔の記憶。きょうは、エスカレーターに、これに巻き込まれて死ぬ人もいるような機械にわたしは身を預けている、と思いながら乗った。きょうは暖かかったり寒かったりでかなり服装の具合が難しかったのだが、そんな中、わたしは七分袖に軽めのジャンパー、という服装で街に出て、それが正しかった。渋谷タワレコの六階でレコードをめくっていたらRideの新作『Interplay』が店内BGMとして流れてきたのだが、アンビエントとかを聴きたい気分の時だったため、うるせえ、と感じた。最近のRideはシンセポップっぽさを強化している感じなんかもあるが、店内スピーカーから流れるRideのうるささはシューゲイザーのそれに近く、伊達にシューゲイザー・レジェンドとして降臨していないなあと思う。それで、わたしがここの六階に赴いたのは、昨年末から中古CDが売られ始めた、という情報を聞きつけたからなのだが、店内のどこを見てもあるのはLPとカセットのみで、中古CDのコーナーが見当たらなかった。諦めて、四階に寄って、店を後にした。ペットボトルをバッグから落として、それを無かったことにするかのごとく、その落ちたボトルをさっと拾って一口飲んでからバッグにしまう人がいた。現地に住む人間として、スクランブル交差点の写真をむやみに撮らない、という矜持がある。『This Fire This Time』というコンピレーションを少し聴いた。きょうCD屋で見かけた、Earwig『Past』のCDを買っておけばよかった、と後悔した。'meanwhile'の語源はなんだろう、と考えていた。'mean'はコアの意味を捉えかねる単語だとも思う。電車に乗っていたら、小学生くらいに見える二人組がファミチキを食べながら乗り込んできて、そのあと、車内にファミチキの油を垂らしていた。

Away

だんだん、スマホで音楽を聴くということに限界を感じるようになっている。外出時などは良いのだが、反対に家にいるときなんかは、スマホで音楽をかけても無感動などころか、ちゃんとCDやレコードなんかをかけた時の感動を薄れさせるような気すらしなくもない。なんか使いたくないけど快適に生きていくためには使わざるを得ないサービスランキング一位:コンビニ、二位:Amazon。三年後に2027年が控えていると思うとじんわりと嫌な感じがする。午後五時ぐらいから一日は楽しくなってくる。ハロプロのイベントの配信を自宅で観て、現地には赴かなかったながら、こういう祭りみたいなものが終わると悲しいなあ、といった感慨をひとり得ていた。人はたぶん大騒ぎが好きで、わたしもそのうちの一人に含まれている。人のたくさんいるところは嫌だ、みたいな態度を取りつつ、いざそういう催し物みたいなものが終わってみると、楽しかったなあなどと物思いにふけるし、次にその会場周辺に行くようなことがあったら意識もする。Scritti Polittiの『Anomie & Bonhomie』を聴きながら、ベランダ掃除をしたことがある。

自重で沈み込みます

Pale Saintsのセカンドには、今こそウケそうなトーンのギターサウンドがたくさん収められている。"Thread of Light"とか、とくに上品で清冽な感じがする。ジオゲッサーをひとりでやっていて、Prefab Sproutの3rdのタイトルにある「ラングレー・パーク」とは実在する地名だと知る。幼い頃、水泳教室の体験会みたいなのに行かされて、泳ぐことや水そのものが怖かったわたしはずっとゴネていたことを思い出した。明らかに嫌がっていることを子供にやらせるな、ということと、あとは、子供に水泳をやらせることを「水難事故に巻き込まれたときに役に立つ」みたいな曖昧な口実で正当化するな、ということがある。テニスの体験教室みたいなのに行かされたこともあるが、あれは水から離れたぶん少し良かった。そこでは、バックハンドとフォアハンドという概念がある、ということを知った。ハロプロのイベントの様子がYouTubeで生配信されていたので観た。SDGsを推進するような催しなのだが、株式会社アップフロントは、いち組織として社会について考え貢献するという立場をおそらくこのイベントで取っていて、それは良いと思った。良いというか、芸能プロダクションとして妥当な「地球を大切に」的価値観への関わり方だ。夏場に怖い話をして涼もう、という発想はすこし特殊だ。中原昌也の日記を読み、じぶんの価値観が揺らいだり、揺らがなかったり、転覆しそうになったり、転覆しなかったりした。中原昌也は人脈がとにかく莫大に見えて、それ以外は寝て起きてレコードを買ってお金に困る、みたいな記述ばかりでこれには共感するに留まるのだが、その人脈の築き上げぐあいには学ぶものがある。もっと外に出よう、という学びがある。Majesty CrushのDavid Stroughter氏のソロプロジェクト・PS I Love Youの『Heart of Stone』を聴いていた。Majesty Crushをよりプレーンにした感じで、微妙なボリュームで流すのにちょうど良いインディロックだった。暖かくなってきて、ほどよく夏特有の緩みみたいなものが生活に出始めている気がする。冬だと隠密隠密で部屋にこもる傾向が強いが、夏は逆で、開けっぱなしのドアと窓と素足に違和感を感じなくなり、開放へ向かう。この、長く続いた、冬のくさくさとしたムードがとつぜん打破されるというのが春なのだなあと気づいて、新学期という概念の始まりを四月に配した人の気持ちには確かに共感できるところがある。ここ最近、ここに日記をアップロードする気があまり起きない。毎日こつこつと書いてはいるのだが、なんとなくアップロードは面倒くさいというか、やりたくない、みたいな感覚に陥っている。

キッズ・ダンサー

風が強すぎる。冗談じゃない。多額の紙幣がゴミとして捨てられていて持ち主が不明、といったニュースに「もしかしたら私のかもなあ…」みたいなコメントをすることは、もうウケない。ここ数日、先日サブスク解禁された塊魂サウンドトラックを聴いているのだが、その中の"LONELY ROLLING STAR"という曲がかなり良い。ピコピコ、女声、明るいのに泣けるメロディ、という琴線に触れるコンボが完成している。このサントラは、ボーカリスト新沼謙治水森亜土などもフィーチャーしつつVGMとして仕上がっていて、かなり挑戦的だ。小学校には、卒業式の日に後ろの黒板に「一時間後:最高の卒業式にしよう 二日後:間違って学校に… 宿題:幸せになりなさい」みたいなことを全力で書くことのできる教員が集まっている。目がなんだか疲れている、という状態を「ドライアイ」と呼びはじめた人はだいぶ大層な真似をしたなあ、などと思ってしまうのだが、本当に強烈なドライアイは本当にやばいのだろうか。酒をたくさん飲む夢をみた。四十年後とかになっても、テレビCMにファレル・ウィリアムスの曲が使われている国だったらどうしよう。パキシエルの英語表記が'paxiel'とかみたいに'x'の文字が入るものだったら、かなりかっこいい。知り合いと呼ぶには馴れ馴れしいが互いに認識はしている、というレベルの人の投稿がインスタグラムで流れてきて、その人は今、アメリカでダンスをして、知らないアメリカのダンサーとたくさん写真を撮っていた。