すごい眼鏡

やはり音楽はアルバム単位で聴くのが、私の性には合っている。一時期は連日このブログに1,000字ほどの文章を書いていたが、そういう大きさのアウトプットを連日するとやはり疲れる。とくに悪い感覚は無いが、生活のなかで観測したことをひとつひとつ覚えておくというのだけでもかなり大変で、わたしは作家には向いていないのだろうと思う。作家ってつねに締切に追われているイメージがあるが、嬉々として文章ばかり書いて締切のだいぶ前に入稿、みたいな作家はいるのだろうか。私が『ののちゃん』や『コボちゃん』の作者だったら狂う。オタクに着ている服を特定される、アイドルという職業を考えると狂う。サブスクばかり使っていると、長い曲名の後ろの方だけ知らないことがある。日常生活においてわたしが言葉をある程度ヒアリングできていることに驚くことがある。たまに日本語でさえ聞き取れないときがあって、そういうときは大概、スピーカー側の発音がぐしゃぐしゃに崩れている。英語が母語でない英語話者の英語を聞くときも同じようなことを思う。「フィリピン・イングリッシュ」のように分類がなされるほど癖があって、でもみんな自信を持って発話しているので、日本人からしたら英語ネイティヴに聞こえる。日本人も「ジャパニーズ・イングリッシュ」で良いのだ、と思う。林檎だと思って食べていたものが梨でびっくりした。「死」が人生の最後に待ち受けるシステムはなんか変な感じがするので、「死」には何かしらのびっくりイベントが付随していると思う。Bandcampのリリースページにはコメントがつけられるが、そのコメントを謎の言語で書いている人がいてテンションがあがった。そのコメントから一単語を抽出して検索してみたら、何のリザルトも出なかった。朝のテレビ番組「スッキリ」がロゴや出演するタレントについてのメジャーチェンジをしたとき、わたしは親戚の家にいてそれを観たかったのだが、ちょうど番組が始まる8:00になった途端テレビ東京の韓流ドラマにチャンネルを変えられたことを思い出した。わたしの祖母は耳が遠いのだが、こそこそ話すことがなくなった気がする。遠くの声が聞こえないぶん、近くの会話は声のボリュームに関わらず内密に感じているのかもしれない。