孫 2歳 狂ったように
「あけましておめでとうございます」は客観的状況についての、ただ空間に放り出されるだけのフレーズだが、「今年もよろしくお願いします」は相手の存在を想定し意思疎通を図るフレーズだ。だが、前者は「年が明けました」と第三者的なものについての状況説明から切り出されるわりに「おめでとう」と人によりけりな感性的表現も含まれていて、いまいちそこの分離がしきれていない感じがする。「年が明けましたね」/「今年もよろしく」みたいに、状況説明/それに付随する挨拶、という二層の連携構造が構築されたほうが融通が利きそう。「新年はめでたい」と思っていない人が「年が明けた」という旨を言いづらい。アニメを観ようと思ったが観ない。アイドルがアイドルとして売れているのを最近はあまり見ない。「暴露」「下世話」「毒舌」みたいな方向に舵を切った元アイドルの人ばかりで、そのシフトチェンジが悲しい。・・・「地獄」というのがこの世界のように自由度の高い場所かもしれないし、「天国」というのこそ、地獄性の一因となる個人の感情などが奪われ、みんながみんな同じ笑顔で同じことに興じる、全体主義的でディストピアっぽい場所かもしれない。「天国」というコンセプトの甘々しさにわたしは懐疑的だ。この世界の世界観のベースが、個々が感情をぶつけ合う「地獄」だとしたら、独裁政治や戦争、殺人といった事柄の悪質さは「個々の感情が潰されている」という理由で証明することができる。輪廻転生の思想なんかも「地獄」ベースの考え方によるものだろうけど、ヒトになろうが虫になろうが地獄は地獄のままだと思う。そこでは戦争なんかも起き得るが、戦争は全体主義的だから悪と見なされる。人の意思が人を抑圧することにはストップがかかる。でも、戦争で罪のない人が命を落としたりする。事故による理不尽な死もある。そこが地獄だから。この世も地獄、死んでこの世から肉体が無くなっても精神は地獄に閉じ込められたまま。地獄という名の水が入った水槽に浸かったままずっと出られない。死んだように/自殺をしたように見えてもけっきょく地獄の中をさまよう。地獄だから自由で主体的、自由で主体的だから地獄。日々を悩み逡巡して過ごすというのがいちばん身近な地獄性かもしれない。・・・我ながらこわい文章を書いている。そこまで本気では書いていないから、と弁解しておく。もし人に死生観について聞かれることがあったら、このページを再訪しよう。ゴミだらけのライヴハウスからゴミが搬出されていくのを見守る夢をみた。1ゴミ。ライヴハウスからゴミが無くなる一年になりますように。親戚の家の、一年に二度ほどしか触れ合う機会のない猫で生命を感じる。あのソース会社は「ブルドッグ」ではなく「ブルドック」らしい。聞き取りベースの時代を感じる。OCHA NORMAでわたしが好きなメンバーは中山夏月姫さん。確かなアイドル性を感じるから。毎日おなじ家に帰るから、安らぎも得られるが日常が陳腐にも見える。たばこを吸っている人と同じ部屋にいると嫌になっちゃう。今日のわたしは親戚の家にいる。とにかく手持ち無沙汰なので、保育所についての新書を読む。親戚の集まりというのは、その場に存在していることが大事なのかもしれないと思う。顔を合わせる、新年の挨拶をする、集会のキュレーターが用意した料理を前に座る、自分の分の混ぜ込みご飯が残らないようにする、会話にはあまり参加しない、本を読んでいる、またはスマートフォンを見ている、でも親戚どうしの会話の中にわたしが登場することがあって、その時は視線を手元から上へ動かして、表情を作ったり「うん」と言ったりする。気は抜け切らないが楽。引いたおみくじにあまり快くない警句が並んでいたので、無表情無言で境内の紐みたいなものに結んで帰ってきた。御守りは、わたしの前で御守りを購入していた家族の子供が何故かわたしに見せてくれた交通安全の赤い御守りを買った。Revolver『Cold Water Flat』を聴く。すごい上品でおとなしい音楽な気がする。初期のThe Verveっぽいなどと言ったらそれまで。わたしはもっと奇抜なのが好きだ。ロックなのにさらっと流れる感じ。確かに冷水っぽいとは思う。そう考えるとアートワークも合っている。大切に聴ける気もしてきた。セブンイレブンでネットプリントをした、Taiko Super Kicksのお便りを読む。読み終わったら、所有しているTaikoのLPのスリーヴに入れる。