おれはHIPHOPじゃなかった

こないだ胎内音を録音したレコードを紹介するツイートをみて、その一部を添付動画から聞いたのだが、Autechreの"Foil"にそっくりで何かこわかった。Autechreが意図的に寄せているのか、音楽家、あるいは人間としての本能の赴くままに曲を作ったらああなったのか。Red House Paintersを小さい音で聴いてとても良かったが、ボーカルの性格が最悪なことを思い出して笑ってしまう。ポストロックだろうなーというジャケットのアルバムって本当に大体ポストロック。柴田聡子『ぼちぼち銀河』の深いところの魅力に、発売から1年越しで気づいた。『ぼちぼち銀河』は受容のアルバムだと思う。共感というよりかは、受容。以前までは"ぼちぼち銀河"や"24秒"などのキャッチーめな曲にばかり目がいっていたが、もっと、フォーク調の楽曲にも親しみを感じられる深みがでてきた。きょうは電車の床にギターピックが落ちていて、踏まないように気を向けながら電車での時間を過ごした。

 

ただのくだらないミーム画像だが、この言語に対応している英語話者はすごい!と考えさせられたものでもあった。本来的な、ふつうの"Holy shit that sucks man"の理解においては、"Holy shit"と"man"は間投詞的なもので、"that sucks"が主語+動詞の部分にあたると思う。だがこのツイートの文脈においては「男を吸う聖なるクソ」になる。少なくとも日本語では、同じ文言でここまで異なる2つ以上の構造をとることは無いのではないか。もともと"holy shit"なんかは話し言葉で、話者の抑揚が「クソ!」というニュアンスの多くを担っていたはずだ。そのような表現が書きの場面にも導入されている今、英語(と限定せずとも、もしかしたら世界中の言語)の解釈がむしろ難しくなっているのではないか。インターネット上での特異なコミュニティの形成の連続が、ふしぎな文法、ふしぎな言語のムード、ふしぎな言葉を作り出しているとも言える。「○○、△△なんだよな」という言い回しにおいて、主語の直後の助詞の省略と「なんだよな」が〈誰に語りかけるでもない、でも語気が強くなることは避けながら、個人的な思索として話題を終始させる〉ような機能を成していて(そのようなニュアンスの強弱についての共通認識が下地になんとなくあって)、比較的陽気でない人たちがよく用いている、という文脈をTwitterを見ない日本人、ましてや非日本語話者が汲み取れることは決して無いだろう。大昔の言語においても、辺境集落などで同じような現象が起きていたかもしれないが、なんせ今は、このような辺境言語とも言える言葉がインターネットに溢れかえっていて、それを見ることができる。では何故それらを解読しないのだろうか、ということになる。方言の話者が減少してきて「方言を保全しよう」という動きがあるが、それらもネット用語などと性質は変わらない気がする。もっともその出自は土着性などの要素が絡み合うため、方言を守る流れになるのは必然的ではあるが。言語にずっと惹きつけられている。今井むつみ/秋田喜美『言語の本質』も読み始めた。

 

【本日の1枚】Boards of Canada『Tomorrow's Harvest』(2013)

最近のBoards of Canadaをはじめて聴いた。だいぶニューエイジ寄りな印象で、IDMっぽくもサイケっぽくもない。ジャケットのモチーフも、いかにもな「陽」。Radioheadとか、「ロック→IDM」みたいな変貌を遂げるアーティストはけっこういるが、このBoCのアルバムでは「IDMニューエイジ」のパターンを学ぶ。基本的に、人間は歳を取るにつれて落ち着く。